昭和50年03月09日 井上あやの100日祭



 ただ今百日祭をさせて頂きました。有難う御座います。魂の世界に入られて、そして今まで本当と思っておった事が本当ではなくて、本当の本当の事が、だんだん分かられて見えたという御霊様の感じで、私ご心眼に頂きますのに、あのその眼鏡をはめておられましたよね。
 眼鏡を取り払っておられ、いわゆるあの、本当の言うならば今朝から頂きますご理解に、信心する者は肉眼を置いて心眼を開けとこう、大体この世で心眼を開かせて頂くところから、本当な事が本当な事に見えて来る。もうそこに本当な事が見えて来る所、おかげ頂いたね、そら有り難かったね、それもおかげぞ、これもおかげぞと言える訳です。
 ところが肉眼で見るから、それは困ったなと腹が立ったり、ね、それはどうするかと言うて心配になったり、そんな事はもう神愛、もう神様のそれこそ氏子可愛いという働きの現われだけしかない。それを例えば、御霊の世界に入られて、あのお婆ちゃん、言わば心の眼が本当に開けて見えておるという感じですね。だから御霊様と何でも、本当な事が交流する事になる訳です。
 今朝から、吉井の熊谷さんがお届けされますのに、昨日が丁度あちらの太郎原の、お姉さんが行っておられます。大きな資産家であると同時に、大きなお百姓さんなんですけども。そのおじいちゃんが亡くなられて、丁度一年になる、昨日で。それでもう一周忌と言うでしょうか、仏教ではが、もうそれこそ、もう大変な盛大な事で終わったんだ。で今日あのその前の日に、これまた皆仏教に凝り固まった人達ばかりでの事ですから、( ? )合楽示現活動をさせて貰いたいからと言うて、お届けがあっておりました。
 さああちらに参りましたら、あちらのご主人が、おばさまもう今日はあの坊さまが来なさったけども、まあだおご馳走本当にまだ、あのう何もかも出来ていませんでしたと。しかしそれでもまあ出来合いだけ、出来重箱に詰めて貰ってから、あのうもう帰って貰うた言われたそうです。 もうそれを聞かれた時に、熊谷さんがね、もうとに角そこではもうあのお経を覚えられて、毎晩お経を上げられて、もうとても熱心な言うなら仏教信者と思いきって御座る訳です。
 けれどもあのう唯拝むということだけが信心、唯お先祖を供養するということだけが信心と、思うて御座る程度の信心だから、はあ今日は合楽示現活動が本当に出来るぞと思うて、有り難く思ったと云う事で御座いましたね。仏教では仏法僧ということが、一番やかましく又有り難い尊いものとして、いう教えがありますね。仏法僧。是を愈々大事にしなければならないというのです。
 先ず仏様を大事にしなければならない、法、所謂教えを大事にしなければならない、僧というのは言わばお道で言うならば取り次いで下さる、仏様の直接御用して下さる、お坊さんを大事にしなければならない。この三つが丁度三脚の様に見事にでけなければ、仏法僧が身に付かなければ、本当の信心ではないと言われておるのです。もうその全てが壊れておるという感じですね。
 私その事を、お届けさせて貰いよりましたら、あのう、京都の竜安寺に石庭で有名な竜安寺に、お手洗いがあります。小さい( ? )の所に、丸いお手洗いがありますが、あのお手洗いが有名な「吾、只、足るを知る」という中にこう、口の字が書いてあって、その脇にその書いてある、「吾、只、足るを知る」。もう不平もなからなければ不足もない。それこそ水の流れるに不足もあらずというその心境を、と言う事なんです。
 ですから、仏教でもやっぱり、そういう教えがあるんです。そういう在り方にならなければ、人間の本当の助かりというものはあり得ないんだと、やはり説いてあるんです。そしたらね、その、私がご心眼に頂くのが、やっぱあの一文銭ですね。一文銭のやっぱ中が口の字になってるでしょ、それにやっぱその、書いてあるのがね。
 四つに割れて、こう互い違いになっとるところをご心眼に頂いたんです。あれを例えば一文銭をこう四つに割って、言うならば、口の字が中にあって、そこに吾、ただ、足るを知るという事は一字一字が、その本当な字になっとるのじゃないです。吾という字の下に、口の字が付くから、吾と読ませるのです。只という字もこの口の字に点々を打つから、只に読ませるのです。
 知るも又は足るも、同じ事なんです。中の口があるからこそ、皆「吾、只、足るを知る」と、読ませてあるのが、四つに割れて、こう互い違いになっとったら、もう字が字でない訳です。もう読めないのです。吾、ただ、足るを知ると言った様なものは、現在の仏教には、もうさらさら無くなっておると言う事なんです。ただもう坊さんが見え( ? )もうお経なら上げて貰ってから、もう早よ帰って下さいと言わんばかり。そしてまだお料理も出来合せておらなかったけれども、お重箱に詰めて、まあ持って帰って貰うたと。
 だからもう内々ばっかりで、というて仏様を拝んで、さあその後のお膳と言うのは、もうそれこそもう二の膳もが付いて、台引きっと言うですか、敷物からこうして帰る時には、お餅だけでもせいろう箱に詰めるくらいあった。( ? )来たり持って来るでしょ。それにもうおご馳走と言うたらもう、ご祝儀のようでした。とても一人では持って帰られる事じゃないから、まあ、自動車で送って貰ったという、お届けが、今朝あっとりましたがね。
それを先祖を大事にするんだ、拝んでおるんだと言う様な事ではないのが、私は金光様のご信心だと思うんです。私はその事を、ふと今日あの今朝のその事を思わせて頂いておりましたら、あの今日の霊祭の事について頂くのです。
 今朝頂いたその、四つに割れた一文銭のね、それがね此の様に互い違いになっているのが、ずうっと寄ってね、もう大体字に読めれるというところまで、くっついた所を頂きましたよ。これが言わば皆さんの信心であるだろう、御霊様のご状態ではなかろうかと、こう思うんです。吾、只、足るを知るということが。
 これがもう少し正確になって来たらもう見事です。ここんところに、是からのお互いの信心もある訳です。御霊様が助かるということは、私共も助かるということに継ながらなければ駄目です。はあ、御霊様が喜んであるだろうというだけではいかんのです。もう金光教の信心はそれです。
 今日は親先生の30日の旬日祭で御座いましたから、丁度1時半からでしたから、( ? )して頂いて、私はあちらへ参らせて頂きましたが、丁度祭主が今日は、宮ノ陣の若先生で御座いました。電話かけたところが、そのタクシーが何ぼ掛けても来んから、というので一時間遅れました。
 例えばなら、あのうもう拝んでから、ならもうご直会頂いておきましょうかと言った様な事じゃない、やっぱり先生を待たせて頂いて、そしてこう今日は、あの若先生が行く所に、今日は甘木の教会に行っとります。光昭が今日からご本部参拝をしとりますから、結局あの幹三郎がおかげ頂いて、それも、今日今、自動車学校に行っとります、のですけれども、ちょうど日曜でしたから、おかげを頂いて御用が出来た。
 言うならば、祭員としておかげを頂いたですけれども、帰りにはご直会だけではない、それには幹三郎達にまで、ちょっとお礼のお包みがのっておって、そして丁重に言うなら、仏法僧の僧を、それほどに大事にされる訳です。これが金光教。それが形式ではなくて、本当に心からなせなければおられないと云う所に、私は仏法僧の、ああまあお道の、言うならば教師と言う事でしょうか、取次者と云う事でしょうか。
 これも今朝のご理解の中に聞いて頂いておるように、萩のイチカワさんが、ね、あんな大変な、まあおかげを頂いてもう何年になられましょうか。もう先生昨日から思わせて、その前の日があちらのご大祭でした、萩の。それで拝ませて頂いてふっと気づかせて頂いた事は、もし私に合楽の先生との出会いがなかったら、今頃イチカワ家はどうなっとっただろうかと思ったそうです。
 もうそれからしきりにその事を思い、その事を有り難うならせて頂いて、いわゆる合楽の先生との出会いがなかったらと、その事の対するお礼がなされなきゃならん。今日は先生わざわざ、お礼に参拝させて頂いたと言われる、ということはどういうことかというと、私との出会いということが、もうこよない大変な尊い有り難いものに成って来た。
 そこになあ、親先生を生神金光大神として拝め、取次者として尊敬でき、そこに金光教の信心は成り立っていくのです。先生がいうことが軽く見れたり、先生がいうことが、あのように先生は言いなさるけれどもというのじゃなくて、もう本当に先生の一言一言が、生神金光大神の言葉として頂けれる稽古をする訳なんです。
 私は今日はその、なら仏法僧という、たまたま丁度、熊谷さんの所のご親戚の一周忌と、それから、昨日イチカワさんが、私との出会いをそのように尊い有り難いものとして、大事にしていかれる。そこから勿論法、教えも大事にする事でしょう。それから神様もいよいよ尊ばせて頂く事でしょう。そしていわゆる吾、只、足るを知ると言う様なです、心の状態が開けてくる。そういうおかげを頂いていく、そういう心におかげがある。それをお道では、和賀心というのです。
 御霊様もいよいよ、魂を清めた上にも清めておいでられて、それこそあの、私が今日頂きます、もうこれで成程、吾、只を足るを知るとまあ、まあこう読めるという程度です。これがもう少しこう正確に成って来た時にです、もそれこそ、水の流れるに不足もあらず、成り行きを尊び大切にさせて頂いて、その時点時点を有り難いなあ、もう実は心の眼を開いたら有り難い事ばっかりなのです。それを私共は心の眼が乏しい。心の眼がわか、見えないところに、不足があったり、不平があったり、イライラがあったり、腹立ちがあったりするわけです。
 そこからね、本当の私共の助かりと言うものを、信心に求めると云う事は、そういうことが分かって、それに向かって精進するということだと思う。御霊様も限りなく精進されるだろう。こういうお祭りを受けられる、為には遺族の者の思いもありゃ真心が、結集されてこのお祭りになる。ただ、御霊様が喜ばれるじゃろうじゃなくて、そう、それをなさせて頂くところに、私共遺族の者の喜びもあるという喜びがね、言うならば通う。魂と魂が交流する、しかもそれがいやが上にも、喜びになっていくという、おかげに段々成長していかなきゃならんです。
 今日私が頂くその、一文銭の四つに割れたのがね、私は本当にそうですけれども神様の知恵ということは素晴らしいと思うですね。今朝から私は、熊谷さんの事で頂いておったことが、これは四つに割れてこの様になっているから、もう全然、いわゆる宗教によって助かるというのでは、というなものが微塵も感じられない。ところが同じ様な物を頂いて今日、霊祭をさせて頂くのにあたってです、ここまでは、井上家の方たちはおかげを受けておられる。
ですから、ここんところが、正確にきちっとこう、四つに割れたものが丸くなったらです、ね、もう間違いなく「吾、只、足るを知る」という喜びの生活、本当の信心生活が出来る様になる。その喜びがまた御霊へ通う、その御霊の喜びが又こちらへ照り返ってくる。そういう私はあいよかけよの世界がね、いよいよ輝かしいものになっていかなければならないと思う。
      有難う御座いました。